高校1年の冬、私は理科の授業中にデカルトを読んでいた。教師がその表紙をちらりと見て、困惑したようにこう尋ねた。どうしてこんなものを読んでいるんだい?私は、それを反抗だとは思っていなかった。ただ、時間割にうまく収まらない好奇心だったのだ。その瞬間が反乱の始まりだったわけではない。でも、確かに痕跡は残った。
「誠実に生きるには、別の学び方が必要かもしれない」と。

私は、ニュースになるような実績も、名誉ある賞も持っていない。けれどかつて、私は54日間連続で働き、2,000円で1週間を生き延びたことがある。それは成功には思えなかったが、道が見えなくなったときに、それでも今に踏みとどまる力を教えてくれた。振り返ると、その期間は何か本質的な転換点だった。「システムに従う」から「システムを問い直す」へと、意識が変わったのだ。

このエッセイは、私を形づくってきた3つの静かな確信をたどる。
——制度は、問いを立てる者を見落としがちであること。
——アイデンティティは、連続性だけでなく「断絶」を通しても形成されるということ。
——文化のあいだを行き来することで、馴染んだものがより鮮明に、そして疑問に開かれたものとして見えるようになるということ。

私は今でも自分を「学ぶ者」だと考えている。対話によって形づくられ、異論に心を開き、「正しさ」よりも「良い問い」を探すことに関心がある。そして同時に、私は自覚している——私は幸運だったのだと。教育を受ける機会、移動する自由、立ち止まり、考え直し、再び築くための時間。それが私に与えられていたからこそ、今の私はある。私は日本を否定するために書いているのではない。ただ静かに、けれど誠実に、こう問いかけたいのだ。——「他に、どんな可能性があるのだろうか」と。

自己紹介

浅井力。2005年に、神奈川県で生まれ、現在はロンドンのフィッツロヴィアに拠点を置いている。このギャップイヤーは、既存の枠組みと、どう関わるべきかを見直すための時間である。2026年には、これまで抱えてきた問いと、経験してきた挫折などからを見出した問題などを深く大学で学ぶ予定である。(政治・ビジネス)

自分の道は決して一直線ではなかった。しかし、崩れや裂け目は失敗ではなく、立ち止まり、見直し、再び築くための契機であると捉えるようになった。        何かを証明するためではなく、自分がどこに立ち、なぜそれがまだ意味を持つのかを理解するために書いている。

これは履歴書ではないし、成功の物語でもない。これは、自分がどんな静かな決断や迷いを経て、世界とどう関わるようになったかを辿るための場所である。

主体性と逸脱の軌跡 /ある個人史の試み

  • 私は、自分を「何かを成し遂げた人間」だとは思っていない。
    新聞に載るような実績も、立派な賞もない。
    けれどかつて、54日間連続で働き、2,000円で1週間を生き延びた。
    その時間が、学校で学んだどんなことよりも私に多くを教えてくれた。

    私の歩みは、まっすぐではなかった。
    静かだったり、重たかったり、不確かだったりする——
    けれど、丁寧にかたどられ、意志をもって進めてきた道だった。

    これは履歴書ではない。
    「私はここにいる」と誇るための宣言でもない。
    もしかすると、本当の始まりは声高ではないのかもしれない。
    それは、「違う生き方を選ぶ」という静かな決断から始まるものかもしれない。

    このサイトが与えるのは、答えではない。
    あるのはただの記録だ——
    私がどこに立っていたか、
    何を問い続けてきたか、
    そしてどう歩き始めたのか——ゆっくりと、でも確かに。

    ここにあるのは、成功ではない。
    けれど、それは確かに「始まり」だ。
    そして私は、これからも進んでいく——確信ではなく、明晰さとともに。

  • 自分が何になりたいかはわからなかった。
    けれど、どう生きたくないかは、早くから見えていた。

    どちらかといえば、裕福と呼ばれるような家に生まれた。
    けれど穏やかとは言いがたく、静けさよりも口論の方が多かった。

    学校では、いじめられる側にも、いじめる側にもなった。盗みもした。
    自分を支えてくれたのは、サッカーそのものではなく、そのまわりにいた人たちだった。
    ぶつかり合い、仲直りしながら、
    人がどう壊れ、どうつながり直すのかを少しずつ学んでいった。

    10歳ごろ、学校の討論会で、私は答えよりも問いに惹かれていた。
    たぶんあの頃から、「正しさ」よりも「理解すること」のほうに価値を感じ始めていた。

    怒りに対する見方も変わった。
    家でも学校でも、怒鳴り声やドアを叩く音は日常だった。
    でもある日ふと思った。「怒っても、何かが変わるとは限らないのでは」と。
    それ以来、怒りは力というよりも、思考が整っていないサインだと捉えるようになった。

    12歳で数学に夢中になった。
    大学教授だった祖父の影響かもしれない。
    私は半年間学校を離れ、塾で数学を本格的に学んだ。
    試験のためではなく、解くという営みそのものが好きだった
    半年で高校のカリキュラムをおおよそ終えた。
    けれど、入試には落ちた。

    母の勧めで私立の学校に進学した。
    自分の意志ではなかった。
    かなり学習内容では、先を進んでいたが、最初からやり直しになった。
    日本では、能力ではなく年齢が進級を決める。

    そのころから語学教育にも疑問を抱き始めた。
    英語を12年学んでも、話せる人がほとんどいない。
    思えたのは、意味より記憶、好奇心より従順を評価するシステムがそこにあったということだった。

    試験は「考える力」を問うものではなく、「思い出す力」を測るものになっていた。
    私は、問いの内容よりも、構造そのものに疑問を持つようになった。

    同じ頃、両親が離婚した。
    それでも学校には行っていた──遅れて、午後から。
    出席扱いと、部活動のサッカーだけが目的だった。

    教師との衝突も多かった。
    反抗したかったのではない。ただ、どうしても問いたかったのだ。
    「なぜ、こうなっているのか?」

    もし私たちが、“問う前に従うこと”を教えられているのだとしたら──
    私たちは、何を“忘れるよう訓練されている”のだろう?

    この経験を通じて形成された視座

    この時期に得たのは、確固とした自己像ではなかった。
    むしろ「問い続ける習慣」だった。
    あの頃に発した問いは、いまも自分の中にある──反発のためではなく、理解のために。
    なぜなら、
    本当の強さは、問いかけるところから始まることもあると、いまは思っているから。

  • Part A: 静かな抵抗

    高校1年、私は初めて「敷かれたレール」から明確に逸れた。
    全日制を辞め、オンライン高校に転校した。
    それは学びそのものではなく、「押しつけられた学び方」への拒否だった。
    私はすでに哲学を読み、政治を疑い、「意図的に生きる」とは何かを考え始めていた。

    日本の教育費はGDPの3.2%。OECD平均の4.9%を下回る。
    英語力は世界80位。数字がすべてではないが、「本当の学び」が阻まれている感覚は、ここに表れていた。

    デカルトを読んだ。著名人に連絡もした。何人かは返事をくれた。
    教師の中には「学校が合わないなら、辞めた方がいい」と言う人もいた。

    父は強く反対した。関係を絶つとまで言った。
    だが私は計算していた。独りで稼ぎ、大学を目指す覚悟はできていた。

    皮肉にも、かつて私を否定した教師たちが、父を説得してくれた。
    そして私は家に残り、オンライン高校に入学した。

    自分で時間を管理できる初めての経験。
    昼はセブンで働き、夜は英語を中心に真剣に勉強した。

    友人を求めなかった。
    AIと対話し、本を読み、自分自身と向き合った。
    音楽——特にテクノやハウスは、言葉にならない自分だけの言語になった。
    いつか、自分で作ってみたい。

    ちょうどその頃、元首相が暗殺された。
    動機に宗教団体が関与していたことから、私はその団体を訪ね、議論を交わした。
    神、真理、意味——毎週通い続け、1ヶ月後、論理の限界と、身の危険を感じて距離を置いた。

    大学の講義も聴きに行った。記憶に残るものもあった。
    だが、努力を持続させるのは難しかった。
    「選んだ道」に誇りを持っていた私の中に、いつしか静かな疑念が入り込んできた。

    Part B: 可視化されたひび割れ

    18歳、私は法的に大人になった。
    その月に父と口論になり、「出ていけ」と言われた。
    私は家を出た。住まいだけでなく、金銭的・精神的な支えからも離れた。

    当時の私は、自分を好きではなかった。
    すべてを失えば変われると、どこかで思っていたのかもしれない。

    その決断は、2年間で8回の引っ越しへとつながった。
    沖縄、神奈川県、東京、大阪、ロンドン。

    一時的に母の家に身を寄せた。
    日本の大学は高すぎたし、制度自体にも違和感があった。
    そこで私は「海外進学」を目指すことにした。

    やがて沖縄のホテルで、スタッフ用の住居がついた求人を見つけた。
    多くが応募していたが、マネージャーは「君の態度が違った」と言ってくれた。

    2022年7月、片道切符で沖縄へ飛んだ。

    レストランで働き、ホテルの部屋で暮らした。
    チームに歓迎され、イタリア料理を覚えた。
    外国人客も多く、英語を使う毎日だった。
    はじめて「自分の言葉で英語を話す」感覚を持てた。

    勤務時間外に勉強し、質問し、ミスをしても、また戻った。
    10日間連続勤務もあった。12時間労働も。
    周囲が適当に過ごすなか、私はただ真面目に働いた。

    年上の同僚たちは、よく飲みに連れて行ってくれた。
    ある人は言った——
    「下を見るな。もっと高みを目指せ」

    その言葉は今でも残っている。

    同僚には医師など、様々な人生を歩んだ人たちがいた。
    彼らとの会話が、私の「価値」への見方を変えていった。

    だが、見えない疲れが積もっていった。
    孤独。空虚。誰にも見られていない感覚。

    だから私は、それを皮膚に刻んだ。

    タトゥーは反抗ではなく、確認だった。
    日本では受け入れられない静かな印。
    でもそれが、自分の信念を守り、「選ばない道」を選ぶ方法だった。

    これが、2度目の「社会からの逸脱」だった。

    沖縄は美しかった。だが、限界もあった。東京に比べて、色々な機会が少なかったのだ。なので、私は東京へ向う決断をした。

    私は成長した。
    料理、接客、耐えること、考えること——全部学んだ。
    チップ文化のない日本で、合計400ドルを9か月の間でもらった。

    4月1日、「もっと成長して、大物になって帰ってくる」と言い残して、沖縄を離れた。

    東京の家に入る前、東南アジアを17日間バックパック旅行した。
    シンガポール、マレーシア、タイ、ベトナム。

    金と貧困。コンクリートと空虚。
    それら全てが、自分を形作っていった。

    「海外で生きる」という夢は、「ここではない場所で生きる」という確信に変わった。

    ただ——
    この先にもっと深い闇が待っているとは、まだ知らなかった。

    この経験を通じて形成された視座

    私が選んだのは、反抗ではなかった。
    それは「自己の筆で生き方を書く」という意志だった。

    「自由に学ぶ」とは、構造の外に立つこと。
    そしてそれは、時に社会からの離脱を意味する。
    ──だとしても、私はきっと再びその代償を払うだろう

  • Collapse II – 努力の縁で

    Part A: 努力の貧しさ

    4月17日、日本に戻ったとき、私の手元にあったのは、思い出と借金だけだった。
    貯金は空だった。もともと、ほとんどなかったのだから当然だった。

    30社以上に応募した。
    だが、年齢やタトゥーが理由で、話す前から黙って落とされることも多かった。
    6回の面接では、門前払いか、見下すような質問を受けた。
    ある面接では、私の将来像を否定され、口論になった。

    つらかったのは、拒絶そのものではない。収入がなかったことだ。

    ──努力だけでは報われないとき、人は一体何をもって評価されるのだろう?

    生き延びるために、iPhoneもApple Watchも売った。
    沖縄にいた頃、もっと貯金しておけばよかったと初めて後悔した。

    私は「どちらかといえば裕福な家庭」で育った。金銭感覚が少しおかしかったのだ。
    でも現実は、1か月も経たずに私を無一文にした。

    それで、日雇いを始めた。
    遠くの工場で郵便物を仕分けたり、引越作業で、ゴミ屋敷を片づけたり。
    10時間以上、時間が進まない仕事。
    きつくて、時に屈辱的だった。

    ある夜、疲れ切った電車の中で自分に言い聞かせた。

    ──いつか、この10時間の苦労、この静けさ、この痛む体を、ただの「生存」以上の意味に変えてみせる、と。

    フーコーの言うように、権力とは制度だけでなく「身体に刻まれるもの」でもある。
    この労働は、単に疲れるのではなく、私の身体と思考と夢のかたちを変えていった。

    もちろん、痛みだけではなかった。
    マイケル・サンデルは「どんな仕事にも尊厳がある」と言った。
    私はその意味を、頭ではなく、身体で理解した。

    こうした貧しさを、私は今まで知らなかった。
    けれど、絶望の中にも、学びはあった。

    同時に、自分の節制は崩れていった。
    酒を飲み、ジャンクフードを食べ、ポルノにのめりこんだ。
    「働く → 麻痺させる → また働く」の繰り返し。

    けれど、その合間にも光はあった。

    外国人ばかりのシェアハウスで暮らし、英語は日常になった。
    政治を語り、食事を共にして、数ヶ月ぶりに「本当の友達」ができた。

    あるルームメイトは毎日走っていた。私もついていった。
    なぜか、走っている間はストレスを感じなかった。

    だからルールを決めた。「毎日、何があっても走る」
    雨の日も、台風でも、疲れていても──157日間、1日も欠かさなかった。

    6月、コールセンターでの仕事が決まった。
    日本語と英語で企業の窓口を担当する。
    会社は大手で、仕事も厳しかったが、敬意をもって扱われた。そして責任も感じた。

    なぜ自分が雇われたのかは、正直わからなかった。
    でも働きはじめてすぐに、自分がどれほど何も知らなかったかを思い知った。

    Excelを学び、電話対応を練習し、発音練習で声が枯れた。
    週末はマリオット東京でも働いた。

    忙しくなった──でも、それは「良い忙しさ」だった。

    Part B: 努力が「生き残り」に変わったとき

    9月まで、私はほとんど休みを取らなかった。
    平日も週末も働き、2つの仕事を掛け持ちし、都市間を移動した。

    毎週末、酒を飲みすぎた。
    東京の家賃は貯金を空にした。
    どれだけ働いても、残るものはなかった。

    そんなとき、LinkedInでメッセージが届いた。
    ベトナムかマレーシアでの仕事のオファー。
    条件は良く、物価も安い。
    私は東南アジアでの旅にすでに惹かれていた。

    私は本気で応募した。面接、評価、採用担当者との会話。
    ビザ取得の段階まで進んだ。

    ただ、制度が曖昧だった。年齢制限、不明確な手続き、前例のなさ。
    それでも、私は賭けに出た。

    会社に退職を伝え、家も引き払った。
    ──けれど、ビザは下りなかった。
    オファーは消えた。

    突然、無職になった。
    そして、再び、住む場所も失った。

    なので、家賃も空気もよい、大阪に住むことにして、移った。
    小さな部屋を借りて、仕切り直した。

    ホテルの仕事はすぐに決まったが、勤務時間は不安定で、給料も低かった。

    タトゥーを隠すスリーブを外すよう求められた。
    私は拒否した。圧をかけられた。だから辞めた。

    でも、準備はしていた。
    マリオットの仕事は辞めていなかったのだ。
    だから、東京と大阪を2週間ずつ往復した。
    母の家に泊まり、日雇いをして、また戻る。
    理想ではないが、機能はしていた。

    それでも、多くの職場では私は「使い捨て」扱いだった。
    彼らが見ていたのは、1人の人間ではなく「アルバイト」だった。

    周りの同世代が大学で学んでいる頃、私はグラスを磨き、テーブルを拭いていた。

    自分に言い聞かせた──「いつか、これを意味のあるものに変えてみせる」

    10月、別のホテルに採用された。
    しかし、制服の袖は短かった。

    初出勤の日、マネージャーに言われた。

    「ここは日本です。そのタトゥーじゃ、受け入れられません。みんなもっと努力してますよ」

    それが最初で最後の出勤だった。

    ──こうしたことは、一度ではなかった。
    私はタトゥーを理由に、3つの仕事を失った。
    これは誇張ではなく、現実だ。

    さらに現実は厳しかった。

    給料の遅延、引越し費用。
    財布に残ったのは、2000円だけだった(約13ドル)。

    私は54日連続で働いていた。
    それでも、無一文だった。屈辱と疲労の中にいた。

    何とか給料日まで耐えた。

    そして、アルコールとファストフードに使った。
    すべてを麻痺させたかった。

    そんなとき、思いがけず父から5万円が届いた。
    「何かうまいものでも食え」と。
    その一言は、想像以上に響いた。

    暗闇の中にも、いい瞬間はあった。
    ルームメイトたちは優しかった。

    一人が言った。

    「お前、まだ19だろ。自分を諦めんなよ」

    私たちは一緒にご飯を食べ、深く話し、ときどき笑った。
    痛みばかりではなかった。

    私は十数社に応募した。
    5つの面接を受けた。

    そのうちの一つでは、自分の人生を1時間語った。
    「あなたの話は印象的だった」と言われた。
    でも、採用はされなかった。

    それでも、落ち込まなかった。
    たぶん、もう「承認」を期待しなくなっていたのだと思う。

    夢は捨てなかった。
    けれど、追うのをやめた時間もあった。

    11月、ビジョンボードを作った。
    ──本当は、もう一度「信じられるもの」が欲しかっただけだった。

    私は、その年、自分を限界まで追い込んだ。
    だから、少しだけ手を離した。

    バー、クラブ、夜更かし、見たことのない薬。
    1リットルの酒、毎日のファストフード。

    幸せではなかったが、ストレスもなかった。
    それで十分な夜もあった。

    最終的に私は大阪を離れ、東京に戻ることにした。
    家を引き払い、再び荷物をまとめた。

    その時点で、いつ大学に行けるか──そもそも行けるのかすら、わからなかった。
    あと2年、貯金が必要だった。
    あと2年、挑戦し続ける必要があった。

    ──そしてその事実が、
    「まだこんなに遠いのか」というその思いが、
    私をほとんど壊しかけた。

    この経験を通じて形成された視座

    この1年が私に問いかけたのは、「どれだけ働けるか」ではなく、
    「確証のない中で、どれだけ立ち続けられるか」だった。

    歩みを止めないこと──たとえそれが静かでも──
    それ自体が、一つの「持続の力」だった。

    そして、私を支えてくれたのは、勢いではなかった。
    沈黙の中で繰り返した、地味な規律だった。

  • 私は日本で生まれ育ち、今は海外で暮らしている。

    ここで語るのは怒りではない。
    離れた場所から見つめる、静かな観察とある種の配慮である。

    ロンドンでの生活は、私の見方を変えた。
    人々の動き、語り方、問い方には「急ぐ理由」がある。
    制度には欠点もあるが、少なくとも変化の方向を向いている。

    その対比が、私に日本では言葉にできなかったものを気づかせた。
    ただの苛立ちではない。
    語られることのなかった未来が、静かに失われていく感覚だ。

    これは非難ではない。問いかけである。
    年齢、秩序、沈黙が過剰に重んじられたとき、
    想像力や自発性は、どうやって保たれるのだろうか。

    日本では、能力より年齢が立場を決めることが多い。
    敬意は義務とされ、沈黙は美徳とされる。
    言語そのものが上下関係を内包している。
    だから「なぜ日本の学生は発言しないのか」という問いは、構造を見落としている。

    英語を12年間学んでも、ほとんどの生徒が会話できないという矛盾に、私は疑問を抱き始めた。フーコーが『監視と処罰』で描いた「規律訓練型権力」—身体を従順にし、精神を萎縮させる見えない力—は、日本の教育に深く刻まれていた。教室では記憶が意味より重視され、好奇心より服従が評価された。言語は生きた対話ではなく、暗記すべき死んだテキストとなっていた。 OECD調査によれば、日本は英語能力で80位。この数字は単なる統計ではなく、システムの構造的問題の現れだった。私は教科書の例文を暗記しながら考えた—これは言語を学ぶことなのか、それとも従順さを訓練することなのか。
    授業は会話でなく規則を教える。
    円安は原因ではない。
    改革の停滞、高齢化、そして「変化を避ける経済」の症状だ。

    私はこれまで、タトゥーを入れたこと、学校を離れたこと、
    別の道を選んだことで批判されてきた。
    だが、私が疑問を投げた制度は、今まさに綻びを見せている。
    秩序は、ビジョンより優先されてしまう。
    従順さは、対話より重んじられてしまう。

    私は日本を拒むために離れたのではない。
    他の制度が完璧だと思っているわけでもない。
    でもこう学んだ——
    難しい問いを立てることは、反抗ではなく責任だ。

    日本を変えるために書いているわけではない。
    ただ、こうは信じている——
    違いを罰する社会は、想像力をも罰してしまう。
    真実より安心を選ぶ国は、過去のために未来を手放すかもしれない。

    これは挑発ではない。
    ただの一枚の静かなフレームだ。
    逃げるためではなく、もっとよく見るために外へ出た私の、視点の記録である。

    参考文献

    • OECD Education Spending: https://data.oecd.org/eduresource/education-spending.htm

    • OECD PISA Scores: https://www.oecd.org/pisa/

    • Changes in the Wage System in Japan: https://www.jil.go.jp/english/jli/documents/2017/003-04.pdf

    • Japan adopts work-style labor reforms - Mercer: https://www.mercer.com/insights/law-and-policy/japan-adopts-work-style-labor-reforms/

    • Japanese Corporate Culture - Scaling Your Company: https://scalingyourcompany.com/japanese-corporate-culture/

  • 覚醒:借りた時間の代償

    私はこの文章を、自分の選択を正当化するためではなく、その代償と学びを記録するために書く。

    1月、度重なる挫折のあと、父からメッセージが届いた。
    「まだ本気で海外に行きたいなら、祖母と二人で支援したい」

    受け入れるのは簡単ではなかった。家を出たとき、私は「自力でやる」と誓っていた。限界まで行って初めて成長できると思っていた。だから、長らく助けを拒んでいた。それを信念と呼んでいた。

    だが現実は数字だ。あと2年フルタイムで働かなければ大学に届かない。それは、人生で最も吸収力のある時間を失うことを意味していた。

    信頼できる人たちに相談した。
    「大学院まで全部借金で通った。それは投資だった」と言う友人もいた。みんな、同じようなことを言った。

    私は、自分がやらなかったことを振り返った。沖縄での貯金。できたはずの勉強。継続すべきときに継続できなかったこと。努力はした。でも賢くはなかった。

    最後は戦略として、支援を受けることを選んだ。

    2月、私は自分の家を離れ、父の家族と暮らした。沖縄にいた間に、私の思考の土台を作った祖父が亡くなっていた。葬式にも出られなかった。祖母がそこに立っていた。

    必要なものを揃えなさい、と言われた。服、道具、リセット。
    2週間で8000ドル以上の支援を受けた。
    かつて私の応募を断ったレストランで、今度は一緒に食事をした。1食100ドルだった。

    ありがたかった。けれど、落ち着かない気持ちもあった。
    これは、自分で稼いだお金じゃない。
    だからこそ私は、それを「自分のもの」のように扱うのではなく、責任として背負うことを選んだ。

    3月、私は鎌倉に移り、ビザの手続きを完了させた。
    出発前、日本各地を回った。友人、家族、自分のルーツ。静かな別れだった。

    4月10日、ロンドン行きの飛行機に乗った。

    ここに来て、世界がどれだけ先に進んでいるかを知った。
    言語を切り替える人々。急ぐ学生。意図を持って動くシステム。

    でも同時に、自分の遅れも感じた。
    今では、かつて8時間かけて稼いだ金額を、1日で使ってしまう。
    ここで時間を無駄にするのは、「資本を失う」ことだ。それはしない。

    この機会は、ほとんどの人に訪れない。
    だから私は、この時間を「契約」として扱う。自分との、支えてくれた人との、未来との。

    今、私が持つ明晰さは、「与えられた特権」によって可能になったものだ。
    教育。セーフティネット。国境を越える自由。
    だから私は、日本への批判を「優越感」ではなく「構造的な問い」として投げかけたい。
    ——もし私が一度も外に出なかったら、私は何を信じていただろうか?

    再構築は始まった。
    投稿もストーリーも全削除した。
    今は、どう見られるかを気にしていない。
    自分で決められるのは「時間の使い方」だけ。
    それで、いまは十分だ。

    学校も始まった。
    遊びに来た学生もいれば、私のように「備えに来た」学生もいた。
    それで、いまは十分だ。

    周りに馴染もうとするのをやめた。
    友達の数を数えるのをやめた。
    今は、「行動した数」を数えている。

    ——そして、まだ一つだけ背負っているものがある。

    昨年、私のそばにいた人がいた。
    彼女だった。
    私が信じられなかった「自分の可能性」を、彼女は信じてくれていたーオランダから。

    でも、私は寄りかかりすぎた。
    愛は、依存に変わった。
    そして少しずつ、彼女を壊していった。

    彼女が去ったのは、愛がなくなったからではない。
    彼女が自分を守るために離れた。そして、それは正しかった。

    私たちは争わなかった。敬意もあった。けれど、それだけでは足りなかった。

    それは、私の責任だ。

    私は「生き延びた自分」以上になるために出発した。
    いま、私はただ成功するためではなく、
    「より良いもの」に参加するために学んでいる。
    声高ではなく——明晰さと誠実さをもって。

    そして、彼女が信じてくれた「私」に、本当にたどり着くために。

    ロンドンで。いま、これを書いている。
    「辿り着いた」と言うためではない。
    「もう一度始めた」と言うために。

    この経験を通じて形成された視座

    「時間を借りる」ことは、弱さではなく「自分への賭け」である。
    「誠実さ」とは、援助を断ることではなく、それを責任をもって受け取ることである。
    「再構築」は、誇りからではなく、「もう一度始める勇気」から始まる。

    私が借りたのは、金だけではない。
    時間と、信じてくれる心だった。
    それを受け入れたことで、自分がまだなれなかったものと向き合わなければならなかった。
    そして今、私はその信頼を——罪悪感ではなく、「前へ進む理由」として背負っている。

  • 覚醒:土台とその先へ

    ときどき、私は自問する。
    もしお金がなかったら?
    もし親がいなかったら?
    もし日本に生まれていなかったら?

    選択はどこまで自分のものなのか。
    そして、どこからが「構造」によるものなのか。
    努力の多くは、見えない足場——運、出自、地理——に支えられている。
    その境界は、私たちが思うよりもずっと脆い。

    はっきりわかっていることがある。
    もしあの支えがなければ、「覚醒」という章は生まれなかった。
    再出発の機会も、きっと訪れなかった。

    今の自分にとって「当たり前」に思えることは、
    簡単に「不可能」だったかもしれない。
    それを知った私は、罪悪感ではなく責任を感じている。
    自分の進歩の背後にある「構造」を見た者は、
    それを「全部自分の力だった」とは、もう言えない。

    私は、痛みを見せるためでも、成功を誇るためでもなく、
    あるひとつの確信を守るために書いている——
    どんな国家も、制度も、記憶も、「絶対」ではない。
    変えられる。ときには、変えるべきなのだ。

    私が学んだのは、単純だが難しいことだった。
    挑戦したことのない人ほど、挑戦する人を笑う。
    だが、何かを「始めたことのある人」は、笑わない。
    気づくのだ。
    私を救ったのは、その「目線」だった。

    私は「限定された決定論」を信じている。
    私たちは、生まれた環境に左右される。
    だが私は「自由意志」も信じている。
    制約の中でこそ、選択があり、意図が意味を持つ。

    これは思想ではない。私自身の実体験だ。
    私が使ってきた自由は、私が築いたものではない足場の上にある。
    だからこそ私は問う。
    私たちは何を残し、何を作り直すべきなのか?

    だから私はまず「金融」に向かう。
    利益のためではなく、「構造」を理解するために。
    投資銀行は見せてくれる。
    資本がどう動き、政策に変わり、国境を越えて連鎖するかを。

    制度を作り直すなら、その内部構造を理解せねばならない。

    日本では今も、「年功」が「意欲」より優先される。
    ユニクロやメルカリなど一部企業は、年齢に依らない肩書やチームを導入している。
    変化はある。だが浅い。
    文化は、静かな革命にすら抵抗する。

    しかし金融は終点ではない。
    政治こそが、「構造」と「意図」が交差する場だ。

    私は「統治制度」「行動経済学」「制度設計」を学びたい。
    それは理論ではなく、
    人間の可能性を制度によって潰さないための「道具」として。

    この旅は、学びから始まり、
    経験によって試され、
    言葉ではなく、「何を作るか」で問われるだろう。

    明晰に。丁寧に。そして責任をもって。

    制度は、従わせるためにあるのではない。
    人を守るためにこそ、存在するのだ。

刻まれた問いー消えない問いを背負って